阪神淡路大震災の私の記録


                                        読売新聞から

はじめに
あの大震災のときに生まれた子供たちが、もうすぐ1年生になろうとしています。
悲しく辛い経験をした人は、数知れません。
私の経験なんてたいしたことではありませんが、私自身の記録として残したいという気になりました。
当時の記憶をたどりながら、述べてみたいと思います。


避難所の運営で印象に残っていること
★3日が、勝負。3週間で何とかなる。
★先ずは、「水」と「乾電池」。次が、「糞尿の処理」と「トイレットペーパー」。
★「食料」は、なくても3日は、もつ。
★指示は、的確に、変更をしない。指揮は、一人で。
★「平等」を守る。
★弱者一人に「おにぎり1個」わたすには、おにぎりが、50個は、必要。
★避難所は、せまい場所から。体育館は、最後。
★情報は、できるだけ全員に提供する。


心に強く残ったこと
★眼の不自由な人――――――「私の地図が、なくなりました。」
★家が全焼した人――――――「市民図書で借りた本が返せなくなった。」
★ずっと家にいて3日目に食料をもらった老人――――――「こんなにもらって・・・・・・・・」涙。
★けがをしていたので病院に連れて行き、手当てをしてもらったが、亡くなった人の家族――――「ありがとうございました」
★スタッフの一人――――――「俺も被災者だ」
★スタッフの一人―――――「糞を手でつかんだ奴とつかまなかった奴は根本的に違う。」
★ある避難者――――――「ここ出るとき、いくら払えばいい?」


支援していただいた方への感謝の手紙(H7.11.22)
 紅葉した落ち葉が風に舞う季節となってまいりました。いかがお過ごしでしょうか。
 本校では、本日(11月22日)をもって、避難所を終了することができました。
 思えば、1月17日より10ヶ月と余日、避難所として幾多の困難を乗り越え、今日に至りました。
 ライフラインが、完全に切れ、生きていたことが幸せと感じ、そして、悪夢であれば、早く醒めてほしいとおもいながら、また、自分自身の肉親の安否を気遣いながら、500余名の命をつながなければならないという使命感をもって避難所の運営に取り組んでまいりました。
 電気がつき、水道が通り、ガスが使えるようになった感激は、今も忘れることができません。あたたかい風呂に入れる幸せをこんなに強く感じたことは、はじめてでした。
 しかし、ライフラインが確立し、人々が、復興に立ち上がりはじめたにもかかわりませず、学校は、その後も長く避難所として存続してまいりました。その間、皆様方のあたたかい心と奉仕の支援で、何とかここまでたどり着くことができました。
 物質的な支援もさることながら、苦しみや悩みを共有しながら、いっしょに多くの問題を解決していくことができたことを大変うれしく思います。
ありがとうございました。
 この震災で私達は、多くのものを失いましたが、また多くの人と出会い、多くのことを学ぶことができました。
 本校の子供達も、より強くそしてよりあたたかい心を持った子供達にきっと成長してくれることと信じています。
 またいつか幸せなときに、お出会いできることを楽しみにしております。
 ほんとうにありがとうございました。

平成7年11月22日


平成7年11月の作文
○○小学校の避難所の記録
震災当日
1月17日朝、私は、自宅から6時半に学校に到着した。施設開放の管理者の人が、学校の鍵を持っていたので、運動場の鍵を開け、そして、体育館に通じる校舎の入り口を開けていた。そして、地域の人達が、学校の中に入りかけていたところに私が到着した。
6時半ごろの避難者の数は20名程度であった。避難者の大半は、建物の中に入るのが恐いと言って、校舎の出入り口近くにかたまっていた。ましてや3階の体育館に入ろうとする人は一人もいなかった。そこで、入り口近くの図書室を開け、そこの椅子を出して座ってもらった。また、校舎内のシャッターは、停電のため開けることができなかった。
水を求めて近所の人々がやってきた。貯水槽にたまっていた水は、すぐになくなった。
電気が通じるようになり、避難者も徐々に増えてきた。避難する教室は、1階の出入り口近くがよいと言うことで、図書室、多目的室、市民図書室を開け、次に2階の視聴覚室を開け、最後に3階の体育館を開けた。その頃になると、避難者の数も350人から400人くらいになっていた。
2時半頃、区役所からといってバケツ10杯程度の水が届いた。「これで3日間持たせてください。」ということだった。これではどうしようもない。どうしたらいいのだろうかと考えているところへ、弁当などを作る会社からご飯と味噌汁が届いた。区役所からもパンが届いたので、それらをみんなで分けあった。十分といえる量ではなかったので、部屋ごとに比例配分したが、混乱も無く、子供や老人やお腹をすかしている人には、みんなが優先的に配っていた。
教職員の方は、17日は、ほとんど連絡が取れず、28人の内出勤できたのは、8人程度であった。19日には、全員に連絡が取れ無事を確認した。両親が亡くなった職員、家が壊れてしまった職員などがあり、子供達を気にしながらもどうしようもできない状態であった。
多くの支援に助けられる
18日の昼過ぎ、○○町から20リットル入りのポリタンクが100本届いた。20本ほどプールして近所の人と避難者全員で分けた。食べ物よりも水が貴重な頃であった。
22日頃から、自衛隊による給水が始まった。これで水の心配が少しなくなったが、いつこのラインがきれるかわからないので、ポリタンクに水をいれて一定量プールし、避難者には、1人ペットボトル1本程度の水をいつも配布するようにした。
22日の夜中、○○県から10トンの物資が届いた。○○県の消防学校の「○○区南部を支援せよ」という命令を受けて、やってきたということだった。食料、水、衣料品、本、そして、赤ちゃんのおもちゃまで入っていた。さっそく泣いていた赤ちゃんが、そのおもちゃで遊んでいた。忙しい中で、ほっとする瞬間であった。
近くにあった大企業は、全面的に支援してくれた。食糧、水はもとより、バスをチャーターして、避難者を風呂に連れていったり、一日中自動車をおいて、避難者や地域の人達に給湯したりしてもらった。また、トイレの水として利用していたプールの水がなくなったときは、いつでも海の水を汲んであげるともいってくれた。実際50cmぐらいまで減ってしまったが、丁度その時造園会社が、1日2t位の水を供給してくれるようになったので助かった。
また、近くの病院からも「24時間体制でいつでも対応します。」という連絡を受け大変心強く感じた。実際、怪我をした老人の治療や傷薬、消毒薬、風邪薬など多くの支援を受けた。
学校に多くの物資が集まる中、自宅で頑張っている人達、何等かの理由で自宅を離れられない人達が気になった。そこで、自治会長を介して物資を配ることを計画し、直ちに実施した。それによって、食べ物をもらいにきた高齢者は、「3日間何も食べていない。」といって、パンをにぎりしめて泣いていた。もらい泣きをしてしまった。
避難所の中で
教職員と地域の自治会長や地域の有志やPTA会長で物資、食糧、水の配布等避難所の運営を行っていた。みんなで物資が均等に行き渡るよう平等になるよう工夫しながらまた、避難者を説得しながらやっていった。はじめは、食糧、水が少なかったので、おむすびを半分ずつ分けあったり、子供や老人を優先して配ったりしていた。分けられるものは、一人何個というふうに決めて配り、数の足りないものや分けられないものは、部屋ごとに比例配分をした。比例配分をしても混乱はなく、みんな弱者を大切に考え協力していた。しかし、食糧等物資が増えてくると、避難者の意識も変わってきた。食糧面では、「おにぎりだけか」とか「野菜や肉をもっと多く」とか「毎日同じ食事か」要求レベルがアップした。また、日用品等においても石鹸からシャンプーに、そしてリンスに、毛布から布団にそして枕にといったふうに支給される物資が豊富になるに連れて要求度が高くなっていった。
物資は、いつ、どこから、どんなものが入ってくるかわからなかった。不必要なものが大量にきたり、欲しいものがこなかったりした。それらをある程度プールしながら避難者には、一定に配布していった。避難者にできるだけ不安を与えないようにするためであった。今考えると、避難所として欲しいもの、足りないものを集約して要求を一本化してやっていくことが必要だったように思う。
2月18日、近くの4ヶ所の避難所の避難者の代表が集まって話し合いがもたれた。その結果、自分達で自治組織、自警団を作り、自分達で自分達のことをやり、自分達で自分達を守っていくということになった。学校としては、避難所の運営の仕事がなくなり、学校施設の管理だけになり、肉体的には楽になったが、新たに問題が生まれた。
自治組織が、学校の名前で企業に物資を依頼したり、学校にある物資を別の避難所へ移したりした。そのため、学校が、物資の把握ができなくなり区の対策本部との連絡がうまくいかなくなった。
また、「3月15日に避難所から出ていけといわれたが、出ていくところが無い。どうしたらいいのか。」という相談もうけた。(そういう事実は、なかったが・・・・)
また、図書室の前を子供たちが掃除をしていると、子供たちに「どけ!」とか「どこ向いて水まいとるんじゃ」などという人もいて、子供たちは、おどおどしていた。
あるとき、避難者同士のトラブルもあった。夜中に布団の配分で問題になった。「塩酸ぶっかけるぞ」とある一人が脅した。脅されたほうは、逃げて、警察へ通報した。そのため、大きなけんかとなり、結局、脅したほうが、避難所を出ていくことになった。(本当は、脅したほうが正論をいっていたのだが・・・・・・)
このように、弱者が辛い目をする状況が生まれてきた。
いま、避難所には、31人の避難者がいる。仮説住宅が当たるまでは、避難所を出ないという人もいる。また、署名を集めて「公園に仮設住宅を作って欲しい。」と役所に要求している人もいる。避難者の人数が減ってきたので、使用している教室を減らしてほしいと自治組織のリーダーに交渉するが、なかなかうまく進まない。4月に入ってくる新1年生につらい思いをさせたくないと思うのだが・・・・
現在では、避難者への直接の対応は、区の対策本部の職員がしている。毎日の夜の徹夜の当番は、教職員が交代で続けている。
医療の問題
本校では、毎日北九州の医療団が、回診に来ていた。精神的に不安定な避難者に親切丁寧に対応してくれる。ある人が、医療団の医師に診てもらった。診断の結果、避難所以外のところへ移したほうがよいということになった。福祉事務所や保健所の協力で色々場所を探したが、結局本人が、ここの避難所にいたいというので居ることになった。
しかし、避難所では、落ち着かず与えられた薬も飲まなかった。すると、北九州の医療団の医師が、毎晩やってきて「お薬をのみなさい」といってその場で飲ませ、教職員に報告をしてくれた。この医療団の支援は、1月22日から3月末まで続いた。4月からは、本区の医師会の人達に巡回してもらっている。
ボランティアの問題
2月はじめから3月末まで兵庫県西部の先生方に支援に来てもらい大変助かった。3人1組で27時間交代で、大変よく頑張っていただいた。避難所の運営を大きく水関係、食糧関係、日用品衣類関係と3つに分けて活動を行っていた。その先生方には、主に水関係の仕事をしていただいた。飲料水の世話、生活用水、トイレの水の世話と大変忙しく働いてもらった。20リットル入りのポリタンクを2階に運んだり、おろしたりという作業や、トイレの水が流れなくなると、掃除をしたり、消毒をしたりという作業をやってもらった。
また、JC(青年会議所)の人達の支援もあった。この人たちには、主に食糧関係の世話をしていただいていたが、水道が出るようになってからは、JCの主力を他の小学校に移した。
このような中で、いろいろな学校の先生方と多くの交流ができ、いっしょに一つの仕事をしているという仲間意識が生まれ、帰られるときに「頑張ってください」といわれると、「また来てください」と言ってしまった。本当に2度、3度と来ていただいた先生方もあり、感謝しています。
そんな支援の中で、ボランティアとは何なんだろうと考えるようになった。自分達が今やっていることは、本当にいいことなのだろうか、これでいいのだろうかと考えるようになった。
次のような電話があった。
「お年寄りがさみしい思いをしておられると思うので、話し相手をしたいとおもいます。どうでしょうか。」
「大変いいことなので、ぜひ来てください。夜の8時から10時ぐらいが一番良いと思います。」
「夜では無理なので、やめます。」ガチャン。
また、こんな電話もあった。
「劇団を派遣して、子供たちを慰めたいとおもいます。どうでしょうか。」
「ぜひお願いします。」
「それでは、連絡先を教えますので、そこへ連絡をして交渉や準備をしてください。私達は、手伝いません。」
「?」
また、炊き出しに来た団体が、「残りは、食べてください。」といって、ポリバケツ一杯の豚汁を残していったこともあった。
もちろん避難者のために献身的に支援してくださった方もたくさんあった。
自分の生活を犠牲にして、避難している人達の自立を助けるのが本当のボランティアではないだろうか。できないところを助け、困っているところを助けることであり、「どうやったら自立できるのか」をともに考えるのが本当のボランティアではないだろうか。そんな気がする。
学校そして子供たち
教職員には、家が全壊したり、両親が亡くなった人もいたが、幸い、子供たちは、亡くなった者も大きな怪我をした者もいなかった。一時、転出していた児童は、150人から200人あったが、そのうち半数は帰ってきた。授業を再開することができたのは、2月6日だった。最初は、2時間授業で、だんだんと3時間、4時間とし、給食が始まると5時間にした。幸いにも、全壊、全焼の家庭が少なく、学校の再開のころには、一部の児童を除いてほとんどの児童が、自宅へ帰っていた。しかし、子供たちの心のケアは必要だ。
奥尻島の地震の後で、学校の先生が、「子供たちは、物をもらっても感謝するという気持ちがなくなった。これが一番大きな被害です。」という報告を聞いたことがある。まさにその通りである。本校の子供たちの心のケアもむずかしいと思う。
教職員も被災者である
「我々も被災者なんだ」と言いたい。しかし、教職員も被災者であることを避難している人に言えなかった。
本校に避難している人は、家が全壊、全焼の人は少なく、また、生きるか死ぬかといった状態で避難してきた人も少なかった。ライフラインが切れたためとか、家が危険だからとか、また地震が起きたら恐いからとか言うような人が多かった。そんな中で教職員がどんなことをしてきたか知る人は少なかった。1月17日におむすびと味噌汁が食べられたのは、当然と考えていた人がいたり、トイレの水として使っているプールの水が減らないのもあたりまえと考えている人がいた。また、「学校は、何もせえへん。学校の先生は、何もせんと金をもらいよる。わしら避難者のために働いているのに金はくれへん。」という自治組織のリーダーもいた。しかし、我々の努力を知った人は、「ご苦労様でした。助けてもらって、ありがとう。」と言ってくれる。こんな時、「やっていてよかった。我々のやっていることは、間違っていなかった。」と思う。
学校の今後
これからの学校としては、子供の情操面の育成、心のケアが必要だと思う。被災、避難した恐怖感をどうとかではなくて、もっと別の次元の問題があるように思う。運動場に煙草の吸い殻があり、空き缶が転がっている。それが、当たり前のようになっている。以前は、学校へ自転車に乗ってくるなと厳しく言っていた。だから、自転車に乗ってくる子供は、罪の意識を持っていた。しかし、今は、その罪の意識が無く、自転車に乗って学校へ来ることが当たり前になっている。また、平気で休み時間に運動場でお菓子を食べる子供もいる。
 今から少しずつ学校環境を整え、子供達の心を元に戻す努力をしていかなくてはならない。
それから  
 避難所に残る人数もどんどん減り、多目的室1室になった。8月には、教職員の宿直も止めた。役所は、8月15日を持って避難所解消と宣言したが、本校は、仮設住宅へも待避所へもいかない人達が残った。11月21日最後の一人が、自宅へ帰り22日に衣類等物資を片付けて避難所が終了した。しかし、多くの問題がまだ残されている。